”自分の顔を変な顔だと思う”

対人恐怖症患者F子さんは、物心がついた頃から変な顔だと父や親戚などからいわれて、つよい屈辱の思いで幼少期を過ごした。
たび重なる父の暴言・暴力を相談しても親身に応じてくれない母には、はげしい怒りを感じていた。
小学校低学年の頃はクラスメートより「あれは男だ」「化け物だ」といわれていじめられ、悔しい思いで過ごしているうちに小学校高学年にいたって、徐々に脇見恐怖が出現した。

くわしく聞いても<赤面恐怖>段階などの前段階の症状は全く認められなかった。
中学三年になると、家庭内では主客転倒して、両親に暴言暴力をふるいはじめ、高校時代にはさらにエスカレートしていった。

いまは親はただおろおろして、またはじまりそうな気配があると、あたらずさわらずの態度を示すという。
すると、ますます腹が立って暴言・暴力はエスカレートしていく。
現在あるサービス業に勤めているが、最近は上司や同僚の些細な言動に傷つき暴言を吐くようになり、まったくの荒れ放題で、これではどうしようもないと思って来院したという。

やや面伏せの無表情な顔で凝視する対人恐怖症患者の表情は、まさに能面といってよい。
その能面の裏には、怒りとも悲しみとも優しさとも愛の希求とも、なんとも形容しがたい謎が限りなく広がっているといった感じであった。
日常生活はけっして自閉的ではなく、調子に乗るとカラオケで歌いまくり、多弁で、時折接する外国人に人懐っこくブロークンの英語でしゃべることもあるという。
かと思うと、些細なことにムッとなって口を閉ざし、あげくは暴言に及ぶといった感情の起伏が顕著であった。
能面をはずせば女優の三田寛子といった感じの女の子である。

この対人恐怖症患者にみられるような暴言・暴力は、一般に対人恐怖症ではきわめて稀なことがらである。
けれども、破壊的な視線という症状が何かということを知る格好な事例と言ってよい。
その視線には攻撃性のあらわれを容易に見て取ることができる。

だが、対人恐怖症患者が他人を怯えさせる自分の視線の破壊力に、罪の意識をいだいていることを考えると、単純に攻撃性というだけでは説明不可能である。
そこにはまた、人並みになりたい、人並みに人と交わりたい、という他人との一体化願望がみとめられる。
既に述べたように、そもそもF子さんの能面は単純な怒りの表情ではない。
それにF子さんは、人と一体化し得たと思える時にはカラオケで歌いまくり、たいへんなおしゃべりとなる。
それがちょっとでも疎外されたと感じられると、プライドが傷ついて、むっとなるのだ。

そう考えると、攻撃性という表現よりも、森田療法の指摘する「負けず嫌いの意地っ張り根性」という言葉がぴったりである。
治療的には、症状としての視線の問題にこだわらず、ひろく対人恐怖症患者の行動パターンにみられるこの意地っ張りを、対人恐怖症患者との自由連想法的雑談のなかで指摘しておくことが大切である。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著