“自分の中のウソを見抜く”
なぜ対人恐怖症者だけが普通の健康人より拒否される不安を強く持つのであろうか。
普通の健康人は普通に振舞っていて、とくに不安を持たない。
しかし対人恐怖症者の人達は、特別善良に振舞ってもなお、拒否される不安を持つ。
それは、対人恐怖症者の人達の心の底に他者への敵意があるからであろう。
対人恐怖症者の人達は他者による受容を求めながらも、同時に他者への隠された敵意を持っている。
だからこそ、受容されないのではないかと、いつも不安なのである。
こころにやましさがあると堂々とした態度がとれないというのと同じことである。
対人恐怖症の人は他人への隠された敵意があると、他人にそれを気付かれないかと不安になる。
その他人が自分にとって無意味なのではなく、自分はその人に受け入れてもらいたいと願っているのである。
対人恐怖症の人達が人間関係において対決を避けるというのもそのためであろう。
自分の敵意が表面化する場面を避けたいのである。
対人恐怖症の人達にはもともと心の底からの他人への好意がないから、好意ある反対をするということができない。
心の底から嫌いな人間に受け入れてもらおうと善意に振る舞う対人恐怖症の人達は不幸である。
人間は愛し愛されることによって精神的に成長していく。
ところが心の底にある他者への敵意が、愛することも愛されることも不可能にしてしまう。
対人恐怖症の人達は心の底にある敵意を意識化してこの障害をとりはらうことによってのみ、情緒的に成熟することができる。
自分の心の底に他人への敵意があると、常に自分はにくまれているのではないかと不安になるものである。
対人恐怖症の人は他人のことをどう感じるか、ということを通して自分の心の底にあるものを意識化することは、大切なことである。
他人をどう感じるか、ということはおうおうにして自分の心の底にあるものを映し出している。
著者自身、かつてはかなりうつ病前性格的なところがあった。
他人から好意を得るとそれを失うのではないかと不安になり、それを失うまいと努力して消耗してしまったものだ。
しかし、次第に心の底を見つめるようになり、他人との関係に消耗しないようになった。
たとえば、自分の尊敬する人と会う。
そして、その人の好意をたまたま得たとする。
すると自分が心の底から尊敬しているのだから、表面上どのように行動しようとこの人の好意を失うはずがないと安心する。
そのような体験の積み重ねの中で、だんだんと誰といてもあまり拒否される不安のない普通の健康人と同じようになった。
たまたま他人の好意を得た時、それを失うまいと消耗するのは心の底に何か嘘のある人ではなかろうか。
もし自分がほんとうに他人に好意をもったり愛したりすれば、人間関係で恐れるものなどないはずなのである。
対人恐怖症の人のように消耗する人は心の中のどこかにウソがあるのではなかろうか。
「ほんとう」という意味は無意識の領域においても、という意味である、あるいはそれと矛盾する感情をもってないということである。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著