”病状変遷をまず聞く”
視線恐怖の精神療法は一般に、週一回あるいは隔週一回で、短くて一か月、長くて数年あるいはそれ以上かかるのがふつうである。
数年などと聞くと、それだけで愕然とされる方もおられるかもしれない。
しかし、実際には症状が軽快して、そのあいだ立派に社会生活を営んでいる人達も多い。
視線恐怖は対人恐怖症のなかでも重症であり、治療に時間を要す例が少なくない。
わりとよく治療に反応する例もあるが、多彩な関係妄想を発展させる例では、治療にかなり難渋する。
視線恐怖の治療の第一歩は、対人恐怖症の病状変遷を詳しく聴取することである。
その際、前段階の背景化現象が加わるため、D子さんの例のように前段階の背景化が著しい場合、対人恐怖症の症状変遷を念頭に置かないと前段階を見逃してしまう危険がある。
赤面恐怖→表情恐怖→視線恐怖といっても、あくまで理念型であり、たとえばE子さんの場合、「口の中に唾が溜まることにとらわれはじめ、どんな表情をしてよいかわからず・・・」と訴えているが、症例によっては表情がこわばるという症状があらわれず、唾が溜まってのみこむとひとに変に思われやしまいかといった内容の症状にとってかわることもある。
そのために、その症状が対人恐怖症の症状変遷のどの段階に属するかを見定めておくことが肝要である。
治療の次の問題は、こうして明らかとなった対人恐怖症の病状変遷の、どの段階を治療のターゲットにするか、ということである。むろんすべての段階を問題にしなくてはならないが、著者の経験からいうと視線恐怖にこだわると、治療はうまくいかない。
とはいえ、対人恐怖症患者のなかには、治療者を正視し続ける者がいる。
治療者自身が対人恐怖症患者の正視に対人恐怖症的になりかねないほど、正視した視線を動かさないのだ。
このような対人恐怖症患者に対しては、何度かの面接をくりかえしたあと、「何度か話して気づいたんだけど、あなたはじっと相手を見据えて話す方ですね。
もっと目をはずして話したほうが楽ではないですか」と指摘しておくことが大切である。
その際、先に取り上げた森田療法の治療姿勢だとか、精神療法では話をしやすいように、治療者と患者が面と向かわないよう机や椅子の配置を工夫しているのですよとか、日本では床の間の花は、おたがいに花を見ながら話すための工夫という意味もあるらしいですよとか、そのときの思い付きに従って話すとよいであろう。
おそらく精神分析療法家なら、幼児期の、「見、知り、あばく」父親像に由来する超自我や「見、知り、見守る」両親の期待に応えて形成される自我理想と、患者の自我との関連についての理論を念頭において、この種の対人恐怖症患者と応対するであろう。
むろん、その理論を治療の場に生のかたちでだすはずもないが、そういう理論を念頭に置くと、おのずとその理論に関連した治療姿勢がでてくるものである。
たとえば対人恐怖症者は幼児期、過保護過干渉に育てられたケースが多い。
そのために対人恐怖症患者は、その後の対人関係において、他人のよい評価を受身的に求めるようになる。
もし、良い評価を受けないと、期待にこたえようとして形成された自我理想が傷つくということになる。
そのように対人恐怖症患者を解釈していると、おのずと「君は人に好かれたいんだろう。その気持ちがるよすぎるんだよね」などという言葉がでがちになる。
人間誰しも人に良く思われ、人に好かれたいのは当たり前のことであって、そういうことを言ったからとて治療的になんの効果もない。
好かれるの、好かれないのといった受け身の姿勢は対人恐怖症の一面でしかなく、むしろ対人恐怖症では両者の際立った矛盾こそが中核的な問題であり、その矛盾が対人関係の「間」の困惑を生み出すのである。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著