”雑談の重要性”
対人恐怖症患者はむろん「間」の困惑の問題が自分の悩みの基盤にあるとは思っていなかった。
しかし、治療的には、症状という表に現れた現象の背景に、このような問題があることに対人恐怖症患者の自覚をうながすことが大切である。
治療にあたって、たとえばA男さんには、正確にどういったかは覚えていないが、「その気持ちはよくわかるよ。
でも相手が上司なら別にして、部下にまでそんなことしなくてもいいんじゃないの。
どうしていいか戸惑う気持ちはそのままにして、素知らぬ顔で新聞を読んでいればいいんじゃない。
ともかく頭であれこれ考える前に、そうしてみなさいよ」と言った意味の言葉を患者に伝えたことは、確かである。
むろんその点だけではない。A男さんの行動パターンの特異性について、それぞれ話題にとりあげながら、治療者として常識的な意見を述べた。
その際、あまり恐怖心を感じない、やりやすい行動からはじめさせ、徐々に行動範囲を広げさせるのが効果的である。
それが著効を呈した点では、逆説志向について私の心に刻まれた感銘に、勝るとも劣らないという印象を持っている。
対人恐怖症患者のこのような行動特性を知るには、対人恐怖症患者の訴える症状にこだわらず、ひろく対人恐怖症患者の生活におけるさまざまなあり方を話し合う必要がある。
その為には雑談が不可欠である。
もちろんその際、治療者は対人恐怖症の精神病理構造に関する理論を念頭に入れておくことが大切であるが、あまりそれにこだわらないほうがいい。
対人恐怖症患者の家庭、生活史、学校、職場、趣味、嗜好、旅先の出来事、異性との交際、政治や社会の動き、天候など、どんな内容の雑談でもいい。
将棋が好きなら将棋の話、守りの将棋か攻めの将棋か、振り飛車党か居飛車党か、谷川名人がどうのこうのといった雑談。
相手がヤクザならヤクザの世界の雑談、パチンコ屋の従業員ならその裏話の雑談。
治療者も雑学が必要であるが、おのずと限界があり、自分の知らない世界について教えられることも多い。
また、それくらいの役得がなかったら、息苦しくって精神療法などやっていられるものではない。
あまり症状の問題からはなれすぎて、いったいなんのために受診したのかと不審の気持ちを持たれる可能性もあるが、対人恐怖症患者も自分の症状にこだわりすぎず、雑談など、なんでも話す用意が必要である。
著者はこのような方法を、精神分析学の用語をかりて、自由連想法的雑談と名づけている。この雑談には、次の二つの特徴があるように思われる。
1、症状や、症状と関連性のふかい過去及び現在の対人的葛藤ばかりにとらわれていると、治療関係がとかく重苦しくなりがちであるが、それを避けることができる。
2、対人恐怖症患者の行動特性が浮き彫りにされてくる。
精神分析学では、幼児期の重要な人物(両親など)との関係が病因をなしていると考え、その関係がその後の対人関係においても再現されるとして、それを転移感情とよんでいる。
この転移感情はとくに治療者――患者関係において純粋なかたちであらわれるため、精神分析療法では、その操作をとおして転移感情の源を洞察させることを、治療の柱としている。
著者のこれまでの経験では、対人恐怖症でこのような転移現象をとりあげる必要はほとんど感じたことがない。
それは対人恐怖症そのものの性質によるものと思われるが、もう一つには、自由連想法的雑談では、とざされた空間である診察室での治療者と患者の関係という、とかく幼児期の対人恐怖症患者と両親の関係が再現されがちな状況を避け、診察室外での一般的対人関係に重点を移動させるからだと考えられる。
これまでのべてきたことから明らかなように、著者の治療法は、対人恐怖症患者が自分だけの問題だとして症状狭窄的にとらわれていることがらを、誰もが共有する人間的な事象の基盤の上に生じる現象だとして、つねに個別性を普遍性に還元してゆく姿勢を基本としている。
だからといって対人恐怖症患者個人の愛や憎しみ、あこがれや失意等を軽視するわけではない。
けれども、その点をあからさまにだすのは、後に取り上げる対人恐怖症患者の羞恥心にそぐわないであろうし、また治療者のとるこのような姿勢も、その羞恥心を庇護するはたらきをする。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著