”感情の流れに身をまかせる”

自己実現している人は性を楽しむと同時に性無しに生きていくこともできる。
マズローはそういっている。
そう考えれば、快楽主義者は自己実現していない人とも言えるだろう。

自己実現している人は不安でないから、いろいろなことをきめてかからない。

「こうでなければ嫌われる」「こうでなければ生きている意味がない」「こうでなければ楽しんだとは言えない」というような決め込み方をしている対人恐怖症の人は自己実現できていないひとなのである。
最近のように性情報が週刊誌その他で氾濫していると、それを読んで動揺する人もいるようである。
自分はもっと楽しまなければいけない、自分は不完全なのではなかろうかと。
しかし自己実現している人は、他人がどのように楽しんでいようが、そのことと自分の場合を比較して苦しんだりしない。
他人と比較してじぶんはそれほそ楽しんでないと思ったとしても、そのことで悩んだりしない。

つまり、対人恐怖症者のように、すべてのことで「こうでなければいけない」とか「こうでなければおかしい」とか思わない。
そうした点で自己実現している人は、ありのままの自分に満足している。
他人と比較して、こうだから自分はダメだとかいうことは考えない。

「こうでなければ嫌われる」「こうでなければ生きている意味がない」「こうでなければ楽しんだとは言えないという対人恐怖症の人は、「こうでない」時には自分はもうだめだと考えてしまう。

こうなったらもうダメなどということはないのだが、自己実現していない人はそのことを絶えず恐れている。
そのために、自分の潜在的な能力を顕在化することができなくなってしまう。

自己実現していない対人恐怖症の人は、絶えず「こうなろう」「ああなろう」とする。
あらゆる点においてそうである。
感情についても常に無理がある。
感動していないのに感動しなければと考える。
実際には感動していない気持ちをみずからはげまして無理に感動させようとする。
そして感動していると思い込む。
対人恐怖症の人は感情に大変無理がある。

喜びや悲しみ、楽しみや不快についても同様である。
けれども、人は結局無理なく得られるものしか得られない。
自分の肉体的精神的能力以上のものを求めれば、結局自分の能力で得られるものさえもえられなくなるだけである。
対人恐怖症の人は無理をしても無駄、いや、それどころかマイナスですらあると考えた方がいいだろう。

感情に無理をさせることは、自分にウソをつくことでもある。
一升ますには一升しか入らない。
それでも升であればそれ以上そそげばこぼれるだけで必ず一升は入る。
しかし、人間の能力はこうはうまくいかない。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著