”ひとりで喫茶店に入れない”

対人関係の「間」は、言語的コミュニケーションになぎらない。
たとえばA男さんは、公務員宿舎あから通勤していたこともあって、同僚と同じ電車に乗りあわせることが多かった。
たまたま同じ客車に同僚が乗り合わせるのに気づくと、相手もこちらが乗っているのを気付いているのではないかと思って、他の乗客をかきわけても相手のところに行って話しかけないではいられなかった。
知り合い同士が同じ客車に乗り合わせると、素知らぬ顔もおかしいし、かといって、はなれたところにいる相手にむかって笑顔を浮かべて挨拶するのも変だ。
妙に間のわるい雰囲気がかもしだされる。
これもひとつの対人関係の「間」である。

A男さんは相手が年下の部下でもそうしないではいられず、職場についたら、もうそれだけで疲労困憊である。
せっかく買った新聞も読まずじまいである。
また、職場に行ったら行ったで、仕事の合間に、煙草やお茶を一服し、机に足でもあげて新聞にちょっと目を通す、といったこともできない。

むろん職場によってはそういうことは許されないかもしれないが、A男さんの職場では、自分の仕事が一段落したら、他の人たちが仕事中でもそうする人は多いという。
けれどもA男さんは他の人と食い違うところの「間」に耐えられず、そのような時、必要もないのに便所に立つか、仕事でもしているふりをしていないと安心できない。

対人恐怖症患者によって、「間」の感じ方はいろいろである。

ある対人恐怖症患者は、会社の旅行でも浴衣に着替えられない。
一升酒をのんでも、へどを吐いたことがない。
同年代の同僚なら、寝っ転がったまま返事をしたっておかしくないはずである。
また、旅館に着いたら早速パンツ一枚に浴衣がけで露天風呂に入りにゆき、そのあとひやかし半分にお土産店でも見て歩き、人に何でそんなつまらぬ物をといわれようと、買ってみるのも楽しい。

対人恐怖症患者は人とのずれに過敏であり、それが習慣となってかえって場違いな行動になってしまう。
酔っぱらってへどを吐くのも、確かにばつがわるい。

ばつがわるいとは、辞書によると、その場のぐあいがわるいと書いてある。
つまりは間がわるいのだ。
この対人恐怖症患者は酔って吐いた経験がない、間のわるさを怖れ、もちろん酔ってくだを巻くなどは論外であり、そうしているうちに一升酒を飲んでも酔えなくなってしまったのだ。
面白いことに、病状が改善されるとともに酔えるようになった。

また別の対人恐怖症患者は、寿司屋でも飲み屋でもカウンターにすわったことがない。
ひさしぶりに友人と会ってバーに行き、つもる話をしようと思っているのに、女がやってきて「一杯もらっていい?」などといって話しかけてくることがある。
男は見栄っ張りなのか女に優しいのか、ついつい相手にしているうちに、どっちがお客なのかわからなくなることがある。

適当に相手をしながらつもる話もできなくはないであろうが、私などはそれほどの達人にはなりきれない。
しかし対人恐怖症患者はそれどころではないのだ。
そういう場を思いうかべただけで間が持てないと、怖れて近寄れない。

そればかりかこの対人恐怖症患者はひとりで喫茶店にすら行ったことがない。
ひとりぽつんといる違和感、つまり間のわるさに耐えられないのだ。
むろん女の子の多いおしるこ屋に行くなどは思いもよらないことである。

さらにまた別の女性の対人恐怖症患者は店に買い物に行っても、目的の品物を買ったらすぐ退散する。買うのか買わないのかわからない、宙ぶらりんの雰囲気に耐えられないのだ。
品物の物色、衣服の試着、ましてや特売品売り場で人を押し分けて、あれこれと商品をひっくりかえして我先につかみ取るオバタリアン的行動は、かつて一度もしたことがないという。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著