●「こうでなければ好かれない」という思い込み

”信じられないことの辛さ”

人生をきわめて堅苦しく考えている人がいる。

人間はこう生きなければならない、こう生きなければ他人に好かれない、こうでなければ好感はもたれない、と決めてかかっている対人恐怖症の不信の人がいる。

そして「こうでなければ」ならないのに、不信の人はもしそうなれなければ自分は好かれない、とひとりで勝手に決め込む。

対人恐怖症の不信の人は背が高くなければ好かれない、精力絶倫でなければほれられない、権力がなければ他人はいうことに従ってくれない等々、ひとりで勝手に決めていることが多い。

対人恐怖症の不信の人は親しくなると、今度は「こうでなければ」見捨てられると不安になる。

そして不信の人は「こうならなければ」とあせる。

不信の人はあせればあせるほど人間の能力は衰え、潜在的能力の開花はむずかしくなる。

ところが相手はそんなことをまったく期待していないということが多い。

「こう」でなくても相手は自分を好きである。

「こう」でないからといって相手は自分を見捨てるなどということはまったく考えていない。

それなのに、対人恐怖症の不信の人はひとりで「こう」でない自分は見捨てられると信じ込んでいる。

勝手にいろいろなことを決めてかかり、ひとりで不安になっている不信の人がたくさんいる。

体力がなければ尊敬されない、頭が良くなければ愛されない、と対人恐怖症の不信の人は勝手に決めている。

しかし相手はそんなことをまったくこちらに期待していない。

対人恐怖症の不信の人は相手が「そんなことはどうだっていい」と何度いっても安心できない。

実際、相手の心の底から出た言葉でも、不信の人は慰めるためにいってくれているのだろうと邪推する。

不信の人は「そんなことはどうだっていい。そんなこととは関係なくあなたが好きなのだ」
そういってもらって、その言葉を信じたいのだ。

不信の人は信じたいのだけれど信じられない。

信じたいからこそ余計相手にしつこくなる。

やはり対人恐怖症の不信の人は心が不安だと、「こうでなければ好かれない」と思い込んでしまうのだろう。

そして「こう」なろうと努力する。

「こう」ならなければ好かれないという不安が動機で努力するから、努力の効果は出ない。

つまり不信の人はあせるからいよいよ「こう」であることから遠ざかって行ってしまう。

そんな時、対人恐怖症の不信の人は見捨てられると不安になる中で相手が「そんなこととは関係なくあなたが好きよ」といっても、すぐには信じられない。

不信の人はその言葉が救いであるにもかかわらず信じられない、信じたいのに信じられないのだ。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著