”自分だけの問題ではない”

森田療法の入院治療では、同じような悩みを持つ患者同士が集まる。
そのため、とかく自分の悩みだけにとらわれる患者にとって、同じように悩んでいる人達が大勢いることを知り、相手を見てわが身を顧みる機会があたえられ、それ自体が治療効果をはっきすると思われる。
しかし一対一の外来治療では、その点が欠けている。
それを補うのが、今述べたような話題の提供である。

いったい「間」の困惑をかつて感じなかった人がいるであろうか。
いたらお目にかかりたいものである。
若い頃はもちろん、老年になっても、ときによって間のわるい思いを経験しているのがふつうであろう。
年をとると、悲しいことに赤面するほどではなくなってくる。

このような面に対人恐怖症患者の関心をむけることは、治療上とくに大切である。
先に述べた強力性と無力性の問題レベルにとどまっていると、所詮は弱者か強者かといった話になって、せいぜい同病相憐れむしか救いの道はなくなる。
それもあながち否定されるべきではないが、その連帯が攻守ところを変えて、弱者が今度は強者に転じ「迫害される迫害者」現象のくりかえしとなる歴史の悲劇は枚挙にいとまがない。

「そんな話はいまの私には関係ない。いま問題なのは赤面のことだ」といわれるに違いない。
まったくその通りで、対人恐怖症の治療場面でそこまで話を飛躍させてはいけない。
けれども、自分一人だけの問題と思っていることが、実は社会一般、さらには人類全体の問題にも通底していると思うだけでも楽しいではないか。
そう思わなければ、いままで悩んできたことが、あまりにもむなしい。

対人恐怖症治療で何よりも大切なことは、自分だけと思っている問題を他人もかかえているという視野の拡大を、一歩一歩すすめてゆくことである。

たしかに強力性と無力性の問題だけでも、人々との共有することがらへといくらでも拡大しうる。だが、そこには限界がある。

「間」の問題となると、それとは別の視座がひらけてくる。
たしかに対人恐怖症患者は、対人関係の間のわるさにいたく苦しめられている。
でも、みんな程度の差はあれ同じなのだ。
強者であれ弱者であれ、同じなのだ。
強者は強者同士で相互の「間」を意識するはずだ。
みんな同じだと思えば、誰もが「間」を共有しうるようになる。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著