”人間はみな弱い存在である”
人前で真っ赤になろう、おおいにふるえよう、めちゃくちゃにあがってしまおうと願わせる逆説的志向は、大きな壁にぶつかった。
フランクルのような「逆説的志向、何度でも逆説的志向」といった反復指示も限界が見えてきた。
このような反復指示でなによりも困るのは、対人恐怖症患者が来院するたびに同じことしか言えないことである。
偉大なるマンネリズムということもあろうが、少しはヴァリエーションがなくては、治療者も対人恐怖症患者もいいかげん嫌になってしまう。
思えば、まことに芸のない話である。
精神療法でなによりも困るのは、話題に事欠くことである。
性格像がわかってくると、対人恐怖症患者がおこなっていた赤面恐怖の克服の努力は、無力性のあらわれである赤面に恥辱を感じ取り、おのれの強力性によって押さえ込もうとするものだったということがわかってくる。
こう理解されてくると、話題が広がってくる。
なんといっても弱さは極めて人間的なものだ。
弱さは優しさにも通じる。
優しさは愛の不可欠な要件だ。
だれでも弱さをかかえている。
強さだけの人間など、この世にはいない。
もし、そのような人間だけだったら、世の中、食うか食われるかだ。
動物だって腹を見せたら同種間では相手は攻撃を止めると、動物行動学者のローレンツ博士はいっている。
弱さはまた人間相互の連帯をも可能にする。
対人恐怖症患者がもし文学好きなら、太宰治や三島由紀夫を話題にすることもできる。
「それはそうと、君は自分が弱い人間だとばかり思っているけど、なかなかどうして負けず嫌いで意地っ張りなようだね」と、逆に対人恐怖症患者の強力性の要素に自覚をうながすことも、治療上効果的である。
気づかなかった強気の側面を自覚できるだけでも、みずからの病理についての理解がふかまるからである。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著