”負け惜しみの意地っ張り根性”
対人恐怖症患者の性格特徴は、森田療法の定義、すなわち「対人恐怖症は、恥ずかしがる事を似て、自らふがいないことと考え、恥ずかしがらないようにと苦心する『負け惜しみ』の意地っ張り根性である」という規定にふくまれている。
この定義を分解してみると、
1、羞恥
2、ふがいないと考える自らの気の弱さ
3、「負け惜しみ」の意地っ張りな気の強さ、
の三点からなりたっている。
一般に患者は、いったん対人恐怖症におちいると、人と会うのが怖くなり、些細な対人的困惑に動揺する自分のふがいなさだけに意識がとらわれて、自分は弱いところばかりの人間だと思い込む。
そのためにますます対人関係から逃げ腰になる者もいるけれど、たいていの対人恐怖症患者は自分の弱さを克服するためになんらかの自己鍛錬法をこころみる。
中には坐禅、ボクシングなどの激しいスポーツ、過激派運動への参加、大勢を前にした弁論訓練などで、ものに動じない精神を鍛えようとし、はてはごく稀ではあるが、暴力団への殴り込みやD子さんのような、性的冒険に及ぶ者もいる。
とかく人は、このような例を見て「弱い犬は吠える」式の、要するに劣等感の補償としての「優越への意志」「権力への意志」といった見方をして、人間の心がわかったような気になりがちである。
しかし、そのようなことは人に指摘されるまでもなく、対人恐怖症患者自身も承知していながらどうにもならないでこまっているのだ。
“強気と弱気”
そのどうにもならなさをみていると、強気の側面があることは、過剰な弱気意識に覆われた対人恐怖症患者自身には意識されていないのに気づかされる。
むしろ強さ、大胆さ、負けず嫌い、自負心があるからこそ、逆に弱さ、小胆さ、自信のなさがつよく意識されるのであって、強気と弱気の共存を考えないと、対人恐怖症は理解し得ないのである。
その何よりの証拠に、治癒した患者をみてみると、たとえばA男さんのように、社会的にも高い身分で堂々と生きている人達は少なくない。
対人恐怖症患者によって強気と弱気の両成分の比率は異なるが、基本的にはクレッチマーが名著『敏感関係妄想』のなかで述べた次の公式がそのままあてはまる。
<敏感性性格の両成分、すなわち無力性の不全感と強力性の自意識とが特殊な規則性でもって相互に刺激され、こうして両成分間の対立緊張がたかめられるのである>
強力性と無力性の対立緊張は、対人恐怖症患者の生活のあらゆる価値領域にみられるわけではない。
対人恐怖症患者によっては知的、美的、性的、倫理的、身分的、身体的、その他さまざまな価値領域のどれかに目立ってあらわれる。
たとえばE子さんの例では、発病の初期は有名な進学校に入ってからの、知的な面での劣等感と競争心が中心になっている。
しかし、なかでももっとも多いのは、さまざまな価値領域にわたる、対人関係での格好のよさや優劣に関わる面に、二極分裂性が見られる場合である。
E子さんの例でいうと、後に、美貌、知性、経済力、さらには恋愛といった領域にひろがっている。この点、クレッチマーのいう敏感関係妄想が、性倫理的ないし職業的という比較的かぎられた局面をめぐって展開されるのとは、やや違っている。
いったい、このような強力性と無力性は、生来的なものなのか、それとも生活史のながれのなかで強化されたものなのか。
その点については、また後で検討したい。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著