”仮面の裏側”
相手の仮面は、その裏に、とらえどころのない不可解さを秘めている。
とくにA男さんに確かめたわけではないが、おそらく先生は普段と同じように、A男さんに接していたに違いない。
E子さんは面接の後の帰り道、みじめさからないてしまったとのことであるが、無事大学に合格している。
そうなると、先生や面接官がなぜそんな態度を示したのか、対人恐怖症患者にはまるで不可解となるに違いない。
対人恐怖症患者は本音を「見、知り、あばこう」とするが、そうすればするほど、その仮面の裏にある実体は不可解さを増すばかりとなる。
多くの対人恐怖症患者はその得体のしれなさに恐怖をおぼえて目をそらすが、中にはその不可解な仮面の威力によって目をはなせなくなる者もいる。
そのような対人恐怖症患者の一人は、目をはなしたら自分はおしまいだ、自分が駄目になると述べていた。
相手の仮面も自分を破壊させるほどの威力を帯びてくるのである。
不可解さという点では対人恐怖症患者自身の仮面についても同じである。
対人恐怖症患者は自分がなぜ他人に不快感をあたえ、他人を怯えさせるのかと思いめぐらしているうちに、「なにかが生来的に欠けている」「とんでもない人間」「自分がいるというだけで悪い」「犯罪人のような感じ」など、対人恐怖症患者自身も表現にこまるような、不可解な自分を意識するようになっていく。A男さんも、自分はついにジェーキル博士とハイド氏になったと愕然としている。
つまり対人恐怖症患者も、仮面の裏に不可解さを隠し持つ存在と化す。
このような不可解かつ破壊的な威力を仮面の裏に秘めた対人恐怖症患者は、しばしば自分の顔つきが醜いために人に不快感をあたえるのではないかと思って深刻に苦悩し、なかには美容整形をする者もいる。
E子さんにもその傾向が認められる。
精神医学では顔などの美醜にこだわる状態を醜形恐怖ないし異形恐怖とよぶ。
対人恐怖症の場合には、自分のことを身体的奇形以上に醜いとか、人間失格とか、たぐいまれな存在などと自己規定するところに示されるように、単なる美醜をこえた問題が存在するのである。
私のみたかぎりでの印象をいうと、面白いことに醜形恐怖を示す対人恐怖症患者の容貌は、すべて平均ないし平均以上である。
最後に、仮面の一般論を援用して<視線恐怖>段階の仮面の位置づけておこなっておく。
山城祥二編『シンポジウム仮面考』(リブロポート、1982)のなかで、仮面は二種類にわけて論じられていた。
一つは神事などに用いられる、超自然的な存在にかかわる仮面Aである。
もう一つは、私たちが、たとえば会社で上司に見せる顔、部下に見せる顔、友人に見せる顔、家族に見せる顔など、さまざまにとりかえる顔としての仮面Bである。
<視線恐怖>段階の仮面は、不可解さという超自然を帯びてくる点で、仮面Aと仮面Bの中間型としてとらえられる。その意味でも、対人恐怖症は人間のふかみを開示してくれる点で、まことに興味深い疾患だといえる。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著