”自律している人は相手によって態度を変えない”

内面化された家庭像が歪んでいる者は、同時に外の現実の認識も歪んでいる。
だから対人恐怖症の人は他人を恐れるのである。
正確には、対人恐怖症の人は、他人が自分をどう思うかを恐れるのである。他人に対し自分がどう映っているか、そのことを恐れている者は錯覚している。
自分が他人にどう映っているかが問題なのは、実は家の中であって、家の外ではない。

歪んだ家族にあっては、感情は相互に補完的である。
つまり、父親の感情は、妻子抜きに成立しない。
子どもの感情は親なしに成立しない。
各人の感情は補い合って全体をなしている。
子どもをどう思うかは親自身にとって重大な問題なのである。
子どもを従順なよい子と思えてはじめて、自分は立派でよい親と思える。

子どもも同じであろう。兄弟も姉妹もおなじである。
素直な弟がいて、立派な姉がいてそしてみんなで立派な家族となる。
相手をどう思うかは、自分をどう思うかということである。

立派な親と従順な子は、お互いに感情をむけあって立派な親子となる。

家という全体が絶対の意味を持つ歪んだ家庭においては、相手にどう思われるかが重大である。
悪く思われようものならひどいことを言われる。

ところが、外の世界、他人同士のつきあいでは、感情は補完的でもないし、強くもない。友人同士でも”俺の悪友”で済んでしまう。友達の方は悪くても、自分は悪くない。悪友をもつ自分は悪い人間ではないのである。つまり、感情が相互に補完的であった家族の間でのように、自分は相手にとって重大な存在ではない。

相手に自分がどう映っているかが重大な対人恐怖症的な集団は、集団の成員の感情が相互に補完的である。
しかし、一般の社会はそうではない。

自律的な人間にとって、自分がどううつっているかなど問題ではないのである。
問題ではないということは、それによってあまり態度をかえないということである。

自律的な人間が、あなたを頭が良いと思おうが悪いと思おうが、そんなことであなたへの態度を変えたりはしない。
お金があるから尊敬するわけでもないし、無いから軽蔑するわけでもない。

対人恐怖症の人の他人から悪く思われることの恐怖は、家の中でできてしまったのである。
福は外に鬼は内にいたという正しい現実認識を、対人緊張で悩む人や対人恐怖症の人はもつ必要がある。

あっちの水はからく、こっちの水は甘い、外には七人の敵がいるとあなたに教えたのは親であるか、誰であるかは知らない。
しかし、このソトの認識を改めることこそが、対人緊張や対人恐怖症からの解放には必要である。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著