「知り、あばきだす」
視線恐怖の被害者意識の特徴が「見られる」被害者意識であるのに対して、加害者意識のそれは「見る」加害者意識である。
症例によってどちらか一方が優位することもあるが、<視線恐怖>段階の多数の対人恐怖症例を総体的にみると、両者は等価的に認められる。
たとえ一方のみを訴える対人恐怖症例でも、他方の存在を容易に知ることができる。
たとえば、自分が見ると他人が動揺し動作をこわばらせると、自分の視線の加害性だけになやんでいるある対人恐怖症患者は、人中にでるとたちまち委縮して動作がぎこちなくなるのが常であった。
また逆に、人から見られる被害性だけを訴える対人恐怖症患者でも、自分がみんなの中に入っていくと、人が落ち着かなくなって席を立っていくなどと思い込んでいる例は少なくない。
このような例でも「見る――見られる」視線の相互的力学が成り立っているといえる。
ところで「見る――見られる」視線の相互的力学は、さらにどのような意味を帯びてくるか。
「見る」とは、また「知る」「あばく」ことに通じる。
実際、<視線恐怖>段階では「知る――知られる」、「あばく――あばかれる」という相互的構造が認められるのである。
たとえば対人恐怖症患者のE子さんは、なにかが生来的に欠けているというだけでわるい自分の存在を、人に「知られ、あばかれ」「組織の癌だ、害虫だ」とおもわれていると確信する。
視線恐怖にしばしばともなう被害関係妄想は「見られる」ことが同時に「知られる」「あばかれる」ことでもあることを端的に示している。
また対人恐怖症患者のA男さんは、先生の顔を見ると同時に、みられて不快に思う先生の心の動揺をその表情から「知り、あばきだす」。
このような体験を記述する専門用語はないけれど、加害察知妄想あるいは加害先どり妄想とでもよんでおく。
妄想と呼ぶからには、事実から完全に乖離した思い込み、対人恐怖症患者のつむぎだした幻想だということになるが、はたしてそういってすませられるものなのか、と一息ついて考え直してみることが必要だ。
というのは誰しも、人の視線をあびたとき、一瞬、心の流動性が多少とも凝固するのを感じるからである。「見られた時人はおのれの諸可能性の死、つまりはおのれの自由の死、おのれの世界の他者へむかって流出を味わうのだ」とすらのべる哲学者サルトルは、その著書『存在と無』のなかで視線恐怖そのものといってよい世界を描き出している。
サルトルの見解を額面どおり受け入れるわけにはいかないけれども、私たちの世界の一面を見事にえぐりだしているといえなくもない。
そう考えると、対人恐怖症患者の幻想は、人間関係の事実性そのものに深く根ざしたものだということになる。
※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著