●安心して自分を”見捨てる”
対人恐怖症者にとって完全受容とは、相手が自分に何らかの意図をもつこともなくそばにいてくれるということである。
人間は受容されてこそ、自我も発達し、他人という現実もあらわれる。
受容されることによって、人は信頼の能力を持つことができる。
他人との関係はもとより、自己との関係に至るまで、それらの関係はすべて、この信頼を基礎にする。
つまり、受容されることを基礎にする。
自分が受容されていると感じることで、子どもは自分を周囲に任せることができるのである。
H・テレンバッハ『味と雰囲気』に次のようにある。
「子どもが信頼のなかで、まったく文字通りの意味で、安心して自分を”見捨てる”ことができる。
それというのも子どもは、自分の信頼するおとなから見捨てられたりしないからである。・・・こうした信頼は、子どもが頼る場合には自分を任せきれるような、他人の真実さおよび確実さに否応なく基礎をおいている」
子どもは、自分が受容されると感じればこそ、自分を周囲にまかせことができる。
ところがこのような信頼を子どもが持てない場合にはどうなるか。
その場合は自意識過剰、他意識過剰あるいは対人恐怖症になるであろう。
自分を周囲に任せることができてこそ、自分は今こうしようとしているが、もしこうしたらどう思われるかなどという対人恐怖症的な過剰な意識を持たなくて済むであろう。
周囲の人間に自分をまかせることができないからこそ、自分の一つ一つの言動を意識し、他人の言動に過敏に反応する対人恐怖症になるであろう。
受容を体験して育った人は、対人緊張、対人恐怖症に苦しむことはないであろう。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著