“自分の笑顔が気になるという人”

対人恐怖症というと、赤面恐怖のようなものをすぐに思い浮かべるが、実際には、実にいろいろな種類がある。

笑顔が気になるという人もいる。
つまり、自分の笑顔が他人に不快を与えるというのである。
だから、この人は、楽しい話をするのが苦手である。

ところがこの人も、顔がひきつるという人と同じで、歩きながら話すのなら何でもないという。
それは笑顔をみられないからである。

要するに、むかいあって楽しい話をするのがダメなのである。
次第に顔がこわばって、なんともいやな顔になってしまうらしい。
おそらくそんなことはないのだが対人恐怖症の本人は、自分でもそれがよくわかると主張する。

そして、「私がそのような顔をしていれば相手だって不愉快になるのは当然のことでしょう」という。
結局、「笑える人がうらやましい」となる。

おそらく友人で、その対人恐怖症の人の笑顔に不愉快になっている人などいないであろう。
この人だって”笑顔の素敵な人”にはなれるし、もしかしたら今だって、笑顔の素敵な人なのかもしれない。

ひとりで勝手に「私は人を傷つけてしまう」と思っている。
相手の笑顔で傷つく人もいないであろうが、それはもう理屈ではなくなっている。

彼女は、「私は人を傷つけることを極度におそれているのに」という。
極度に恐れているのに傷つけてしまうというのである。

しかしこれは逆で、極度に恐れているから結果が悪くなるのであろう。

実際には彼女の笑顔は決しておかしくはないし、不美人でもない。彼女が、自分の顔をそんなにまで意識するようになったのには、何か理由があるのだろう。

その対人恐怖症の核心にはおそらく、親か誰かきわめて身近な保護者がいるにちがいない。
彼女の表情が自分の期待通りでない時、決まって不愉快な態度を見せた人がいるに違いない。

おそらく幼い頃、欲求不満でひねくれたおとなが、この子を意のままに動かそうとしてそれに失敗し、オーバーに傷ついた様子を見せたのではなかろうか。
この子を自分の依存心の犠牲にしながら、逆に犠牲にされたような顔をしたのではなかろうか。

自分の意識しない表情が、予期せぬ結果を生んだのである。

著書『対人恐怖』の中に、次のようなことが書いてある。
「まことに人間の精神は意地悪くできている者である。嫌だと思って避けると嫌なことが付きまとい、逆に、願うと願ったことは叶えられない。赤面もそれを願うと、奇妙なことに、結果として赤面しなくなる」

このことは、『夜と霧』の著者、ヴィクトル・フランクルの本などにも繰り返しでてくることであり、森田療法などで、あがったらあがったでいいやと、受け入れることをすすめるのも同じ趣旨である。

ところで、対人恐怖症はなぜこのように逆になってしまうのだろう。
これは、肝心な問題である。

私は、その願いが恐怖に動機づけられているからだろうと思う。
ある願いが恐怖に動機づけられている時、逆になるのではなかろうか。

対人恐怖症の人は美しく笑いたいと願う。なぜか?
他人に不愉快な思いをさせるのが怖いからである。

対人恐怖症の人はなぜ顔をこわばらせたくないか?
それは、同じく他人に不愉快な思いをさせて嫌われるのが怖いからである。

対人恐怖症は避けることの動機も恐怖であり、願うことの動機も恐怖である。
だから逆に逆になってしまうのである。

赤面恐怖症の人が赤面すまいとすれば赤面し、赤面しようとすれば結果として赤面しないというのはそういうことである。

赤面恐怖症の人が赤面しようとすることは、恐怖に立ち向かう姿勢である。したがって、結果としていやな赤面は避けられるのである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著