たとえば、対人恐怖症で、一瞬の気のゆるみも許されず、過度に緊張した感情の持続でヘトヘトになっている人がいる。
その原因が親であるにもかかわらず、「両親が私を思う気持ちを考えると・・・」となる。
そして「私は父を尊敬しています」となっている。
さらに、対人恐怖症の人は滝に当たるというような方法で自己鍛錬をし、相変わらず、「親の側で親孝行をしたい」となる。
どこで読んだかは忘れたが、ある本に、このような親は、子どもを抱えて水に飛び込む人間と同類だとあった。
自分で飛び込んだ親は自分で浮き上がれるが、ひきずりこまれた子どもは永久に浮き上がれないという。
地獄からの使者のような親にからみつかれて神経症になる人の、なんと多いことか。
このような対人恐怖症の人に、ちょっとでもいいから、ごく普通に考えてもらいたいことがある。
もし、ほんとうに親がありのままのその人を愛していたら、どうして見も知らぬ人間に、「助けてください!」とSOSを送るはめになろうか。
現に親は生きているのである。
対人恐怖症の人が「両親が私を思う気持ちを考えると・・・」というほどほんとうに自分が愛されているなら、心を許せる仲間ができないことがあろうか。
本当の愛が、そんな自分にとって重荷になることがあろうか。
そのような対人恐怖症の人は、愛の名のもとに貪欲にからみつかれて、生命が枯れ果てたのではなかろうか。
もしこのような対人恐怖症の人が、自分の親は愛情深いのではなく、みにくい本心を隠している卑怯な人間であると見ることが出来さえすれば、自己鍛錬など必要なかったのである。
女性恐怖症を克服する為に女を買うなどという異常なことをしなくても済んだのではなかろうか。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著