“自分を愛してやまなかった人の正体”
さて、とにかく、対人恐怖症克服のための自己鍛錬をいうのは、恐怖に立ち向かっているのではなく、真の動機である恐怖からにげているため成功しないのである。
真の動機である恐怖から逃げることが、克服のための自己鍛錬であるから、悪化してしまうのである。
滝に当たって自己鍛錬するというのは、たいへんな苦行であるように思われる。
確かに苦行ではある。
しかし、ここで見逃してはならないのは、このような対人恐怖症の人間にとって、恐怖の焦点を自覚することに比べれば、滝に当たることははるかに楽なことだということである。
苦行は苦行であるが、恐怖の焦点を見つめることはもっと辛い。
つまり、恐怖の焦点を見つめるのが怖いから、滝に当たるという安易さに逃げているのが対人恐怖症の人である。
対人恐怖症の真の原因は親である可能性が大きい。
ことに”自分を愛してやまなかった親”である場合が多い。
小学校以来、自分の成績は中の上であった。
しかし、母は決してそれに満足していなかった。
母は自分に常に上位であることを期待した。
母の期待は、自分にとって重大であった。
なぜなら、母がじぶんのそばにいて自分を愛してくれることを望んだから、その手段として、母の期待をかなえる必要があったのである。
それにしても、なぜそんなに母に身近にいて欲しいと思ったのか。
それは本当は母に愛されていなかったからなのではなかろうか。
その愛への欲求不満が、母に常に身近にいてほしいと感じさせたのではなかったか。
自分がどんなにいやなことでもいやとはいえず、笑顔で母の命令に従った。そうすれば母は、自分を従順な子とほめてくれたからである。
いつまでも従順な子でいたい。
それは、真に愛されなかった子の悲痛な願いである。
このような子は、自分の本心を知ることを恐れる。
真に親に愛された子は、はやばやと親から離れていく。
しかし、愛されなかった子は、なかなか離れることができず、対人恐怖症などの神経症に陥るケースも多い。
従順な子としてとどまるか、ひねくれて親に絡みつくかは別として、親のまわりから離れることができない。
こんな時、自分の母を正面から憎むことができた人間は、対人恐怖症にならないですむのではないだろうか。
少なくとも、母が直接の原因で対人恐怖症になることはあるまい。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著