”こわい時はこわさそのものを受け容れる”
『対人恐怖』(内沼幸雄著)に、自己鍛錬について次のように書かれている。
「対人恐怖症患者は赤面と戦うために、滝に当たる、坐禅をくむ。
学校を中退してストイックな自己鍛錬法を試みて、ものに動じない自己をきたえあげようとする。
なかには女性恐怖をなおすために女を買うものもおり、それも性的欲求の満足が目的ではなく、一種の自己鍛錬的なストイシズムの現れである。・・・むろん極端な自己鍛錬法を試みる者は例外に属する。
けれども・・・大勢を前にした演説によって自己鍛錬をを試みる者は多い。
なかにはそれが習性化して、学園の儀式や催し事に頼まれればすすんで演説を引き受ける者もいる」
対人恐怖症の克服のための自己鍛錬はたいてい失敗すると、この本の著者は述べている。
私のところに来る手紙から判断しても、失敗するケースのほうが多い。
逆に悪化するケースさえ少なくないのである。
この本の著者は、「自己鍛錬法がなぜ成功しないのか?」という問いに対して、「その答えは、実はまことに単純である」として、次のように述べている。
「つまり対人恐怖症患者の自己鍛錬法が、恥知らずになる非人間的な努力だからに他ならない」
私は、そうした面もあるが、基本的には、この自己鍛錬法が恐怖の焦点から逃げているからだと思う。
対人恐怖症の人は、自分がもっとも恐れている者から逃げている。
恐れの焦点から眼をそらしているから、いかに鍛錬しても成功しないのである。
そして、逆に悪化するというのは、その焦点となっている恐れから行動する為、背後の動機が強化されて悪化するのである。
これは先にあげたウェインバーグの、「行動は背後にある動機を強化する」ということの具体例である。(参照)
このような場合、必ずといってよいほど出てくるのは、森田療法である。
つまり、こわい時には恐さそのものを受け容れるという方法である。
なぜこれがよいかといえば、こわい自分から逃げ出そうとしていないからである。
怖がって逃げ出そうとすれば、余計怖くなるだけである。