”自と他のあいだ”

しかし意識が「自」と「他」のあいだを相互に行き来して循環回路をつくっている場合、「自」に中心をおくか、それとも「他」に中心をおくか、あるいは中心を両者のあいだにすえるか、いろいろな考え方がありえよう。
自意識も結局は他意識に回帰してくるという考え方も、同じように成立する。

「自」に中心をおくデカルト流の哲学は、自分以外の対象をものとみる独我論の袋小路にはまりこんでしまった。
その結果、対象が人間である対人関係が問われる場合に、いまでは自他の関係そのものに中心をすえる相対的な見方をとらざるをえなくなっている。
意識はどこまでも私の意識であるなどと言うことは、決して自明ではないのだ。

自分のことは自分がもっともよく知っていると思っている人に限って、精神障害をおこしやく、知っていると思っている自分すらも見失ってしまう悲喜劇は、日常臨床でしばしば経験される。この点は精神病理学の第一公式にしてもいいほどである。

対人恐怖症は、自意識過剰や他意識過剰の錯綜した関係を通して、自他の関係の在り方をあざやかに示してくれる点から、各種神経症類型のなかでも特異な疾患と言って過言でない。

なによりも特記に値するのは、対人恐怖症の精神病理において「自」と「他」が同一の比重をもって関係しあっており、中心をその関係の中間に据えなくては、、その全貌をとらええない点である。
その点を何よりもよく示してくれるのが「自」と「他」のあいだで構成される「間」の意識である。

「赤面恐怖」段階の症状では赤面はみられなくとも、赤面に匹敵する声のうわずり、震え、発汗などの対人緊張となってあらわれることも少なくない。が、この対人恐怖症患者によく聞いてみると、それ以外にも対話の「間」、挨拶の「間」、その他さまざまな対人関係の「間」にどうしたらいいかわからずに困惑しているのを容易に知ることができる。

たとえばC男さんは、たまたま電車で座り合わせた若い頃女性と話しているうちに話題にとぎれ、対話に「間」があいたことに困惑して赤面し、それ以来赤面恐怖におちいっている。

※参考文献:対人恐怖 内沼幸雄著