”自意識過剰な人はあやつり人形と同じ”

自意識過剰な対人恐怖症の人は、戦争の終結も知らずにジャングルで戦っている人を想像してみるとよい。

それが、今の自分の姿だからである。

戦争は終わった。

しかし、自意識過剰な対人恐怖症の人はまだ戦っていると思い、昼は敵に見つかることを恐れてじっと動けずにいる。

夜になると食料を求めて動く。

もう戦いは終わっている。

もう世の中は変わっている。

豊かな消費の時代になっている。

それなのに、対人恐怖症の人は敵に見つかることを恐れて、ひとりでじっとジャングルに身をひそめている。

これこそ自意識過剰な人間なのである。

劣等感の強い対人恐怖症の親は、世の中は自分を傷つける敵ばかりと思っている。

そして、その敵から自分を守る役目を子どもに課した。

そして親子連合軍は戦った。

しかし子供は成長し、社会人になった。

周囲はもはや、その人にしがみついて生きてなどいないのに、その人は敵を意識して生きている自意識過剰な対人恐怖症である。

よく赤面恐怖というようなことをいう人もいる。

それほどひどくなくても、人と話をする時、顔が少しひきつった感じになるという自意識過剰な人がいる。

自意識過剰な人はそれが辛くてしかたないので、相手の眼が見えない位置から話すなどと言う人もいる。

自意識過剰な人は横とか暗いところだと何でも話せるのだという。

自意識過剰な人はこれも、おそらく横や暗いところなら、顔がひきつってもみられないという安心感があるからであろう。

自意識過剰な人はひきつってもいいという状態だからこそ、ひきつらないのであろう。

自意識過剰な人は正面からだとひきつったら相手にわかる。

自意識過剰な人はだから、ひきつらないようにしよう、ひきつったら大変だという不安があって、かえってひきつってしまうにちがいない。

自意識過剰な対人恐怖症の人は顔がひきつるのをなぜ気にするのか?

それは、自分の表情が他人に不快感を与えるのではないかと思うからであろう。

このような自分の表情への過剰な意識も、やはり、幼い日からの体験の積み重ねによるのではなかろうか。

自意識過剰な人は幼い日から、親か誰かに貪欲にしがみつかれていたのではなかろうか。

欲求不満の親を持つ子どもは、自分のちょっとした言動が、親を大変、不快
にすることを経験する。

そして、そのことに対する過度の感情の緊張が、結局、顔がひきつるのではないかという不安、さらには、ひきつることで、不快な感情をあたえてしまうのではないかという自意識過剰な対人恐怖症の怖れにまで発展するのである。

自他意識の過剰な対人恐怖症の人は、とにかく、自分の親と、いま、自分の周囲にいるひとは違うのだという一点に注目することである。

自意識過剰な対人恐怖症で困っている人は、自分の親のように、他人は自分の一挙一動に喜んだり怒ったりはしない。

この点に注目することである。

※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著