”宴会を楽しめる人、楽しめない人”
ところで、自意識過剰や対人恐怖症の大人が見落としてる、大切な事実がある。
それはおとなになって、今自分の周囲にいる人は、自分の親のように、自分を意のままに動かそうとはしていないという事実である。
自分の周囲にいる人間は、自分のおやのように自分に依存していない。
対人恐怖症の人のように、その人に対する自分の反応ひとつで、その人の感情が揺れ動くことはない。
どんな表情で挨拶したからといって、そんなことを気にしていない。
自意識過剰や対人恐怖症の人は、どうしてもつぎのことを知る必要があろう。
周囲の人は、自分の親のように貧欲にしがみついてなどいない、ということである。
欲求不満な親は、自分の虚栄心を他人から防衛するための壁として子供を使う。
親のやったなんでもないことを、子どもが偉大なこととして称える。
親はそれを子どもに期待する。逆に、他人のやった偉大なことはけなすことを期待する。
親の虚栄心を防衛する壁としての役割を背負った子どもは、見事に果たそうと緊張する。
その壁の役割を見事にやってのけないかぎり、自分は親から拒絶される。
親にとってもこの防衛の壁は重大であるだけに、子どもの一部始終に気を付けている。
そんな役割を背負ってきた子どもは、成長してからも、他人は自分の一部始終に気を付けていると錯覚し、対人恐怖症になる。
企業に入って、対人恐怖症の人は、忘年会、新年会といった宴会さえ、気軽に楽しめない。
カラオケでさえ、上手く歌えなかったらどうしようなどと不安になり、気を遣う。
気楽に育った人は、宴会という宴会で、とにかく楽しんでしまう。
同じ宴会で、一方は底抜けに楽しんでしまい、他方は不安な緊張や対人恐怖症に苦しんでいる。
両者の違いは、錯覚の有無でしかない。
対人恐怖症の人の中には不安から感情が過度に緊張して、カラオケのマイクをもつ手さえ頼りないほど自意識過剰な人がいる。
そんな人は、次のことを知る必要があろう。
他人は自分に防衛の壁の役割など期待していない。
自分はもはや他人の防衛の壁などではないのだ、と明確に意識することである。
自分は、他人の幼稚な願望をとげるための手段などではない。
もはや他人は、自分にそんなことをまったく期待していないのだ。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著