”人と親密になるのがなぜ怖い”
不信感がある対人恐怖症者は他人と会った時、すぐに心理的に圧倒されてしまうのは、その人に圧倒されているからではない。
小さい頃、自分を圧倒していた我執の強い親のイメージを他人に転位するから、圧倒されてしまうのである。
あなたに最も欠けているのは、信頼の感情である。
小さい頃、信頼して座っていられる”おとなしいヒザの上”がなかったにちがいない。
他人の期待に合わせなくても、自分は受け入れられるのだという信頼の雰囲気が育った家族の中にはなかったのである。
逆に、他人を嘲笑するおとなたちにかこまれ、その嘲笑を聞きながら、自分も気に入られなければあのように嘲笑されるのだという、恐怖があったのである。
もし、家の中の大人たちが、他人を温かい眼で見ていたらどうなるか。
子どもは、自分もまたそのように温かい眼で他人から見られるのだという安心感を持てたであろう。
拒否や嘲笑、不信や嘘の雰囲気の中で育った子どもは、他人の期待に卑屈に従う以外には、自分が受け入れられないと思う。
「あんなことやって、あいつはバカだねぇ」と家の主権者がある人をあざ笑う。
それに家の者が唱和して「アハハハ」とあざ笑う。
それを見ている子供は、嘲笑の怖ろしさを知る。
子どもは、他人との接触において、嘲笑されはしないかといじける。
そこで、自分を嘲笑する可能性のない人に対しても虚勢を張ったり、卑屈に迎合したり、避けたりする。
あるいは、母親のいないところで父親が母親をバカにするようなことを子どもにいう。
あるいは、母親が子どもに「お父さんのようになってしまうわよ」とおどす。
それでいながら、父と母は、平気で一緒に暮らしている。
それを見た子どもは、他人の言うことを信用できなくなる。
父と母の間の不振を見た子供は、自分の中にその不信の関係を内面化していく。
子どもは、その家の「不信の構造」を自分の中に取り込んでいく。
不信の構造を自分の中に取り込んだ子どもは、成長してもたにんと最後のところで親密になれない。
親密になることが怖い。
裏切られることを恐れるからである。
対人恐怖症である。
父と母のあいだには信頼感がない。
子どもは強い方に迎合していく。
その強い親は、子供を排他的に愛したりする。
そうなると、他人と親しくなること自体が、その親への裏切りと感じるようになる。
ある対人恐怖症者は、恋愛中に、母親が刃物を持って追いかけてくる夢を見た。
また親しい友人ができ始めた頃に、父親が刃物を持って向かってくる夢をみた対人恐怖症者もいる。
他人と親密になると、それが親への裏切りとして跳ね返ってくるわけだが、では親を信頼しているかと言うと、そうではない。
親同士の関係を見て、その場のこうぞうを自分の中に取り込んでいるだけである。
二重にも三重にも不信で縛りつけられている。
こんな状態で、どうして他人と親密な関係を取り結べようか。
どうしても、他人と会えば圧倒されるような気持ちになり、いじけるしかない。
”普段着の自分が一番”
不信感がある対人恐怖症者は、自分のできること以上のことを他人にしてあげようとするから、他人と会うと緊張するのである。
不信感がある今の自分の状態でできることをして、それでつきあいきれないのなら、もともとその人とは縁がなかったのである。
実際の自分、ありのままの自分、普段着の自分、いつもそれでいればよいのである。
人と会う時、ことさら、何か特別にしようとするから、ストレスを感じてしまうのである。
自分が思うほど、他人は自分に期待してはいないのである。
自分がいなくても、他人は楽しくやれる。
しかし、自分の親が依存心が強い場合は、そうは思わない。自分の気持ちの在り方で、親が楽しくなったり、怒ったりということの多かった人は、他人は誰でも自分の気持ちの在り方に大きく依存していると勘違いしている。
対人恐怖症を克服するには普段着の自分が一番ということを肝に銘じておくことである。
※参考文献:気が軽くなる生き方 加藤諦三著